Yokohama Shiloh Message
■2005年02月20日・夕礼拝説教


「カインの末裔」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第4章 1節-26節
・ 新約聖書; マタイによる福音書、第5章 38節-42節
・ 讃美歌 ; 300、469

 

カインとアベル
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の創世記からみ言葉に聞いていますが、本日も、先月に続いて、第四章の、カインとアベルの物語を読みたいと思います。カインとアベルは最初の人間アダムとエバの二人の息子たちでしたが、カインは、神様が弟アベルの献げ物に目を留め、自分の献げ物には目を留めて下さらなかったことに怒り、アベルを撃ち殺しました。人類最初の殺人が行われたのです。アダムとエバから始まった人間の歩みは、その子供の世代で早くも、兄弟が兄弟を殺すという悲惨な罪に陥ったのです。先月は、カインがアベルを殺すに至った心の動きを中心に考えました。カインは、アベルに比べて劣った献げ物を献げたわけではありません。献げた態度が悪かったわけでもありません。そういうことはここに何一つ語られていないのです。つまり、何故神様がカインの献げ物に目を留めて下さらなかったのかは謎です。理由のわからないことです。人生にはしばしばこういうことが起こります。格別な理由がないのに、何故か自分だけがいやな思いをする、認められず、評価してもらえない、自分にばかり苦しみ、悲しみ、不幸が襲ってくる、カインはそういう人生の謎に直面したのです。この謎に直面する時、そこには私たちが罪に陥る大きな危機があります。自分とは違ってよい思いをしている人、認められ、評価されている、喜んでいる、幸せな人への恨みの思いが生まれるのです。アベルがカインに何か悪いことをしたわけではありません。しかしカインは、神様に目を留められたアベルを憎み、殺してしまったのです。先週も、大阪で、小学校の卒業生が、在校中にいじめを受けたことへの恨みから学校に侵入して、直接関係のない先生を殺傷してしまったという悼ましい事件がありました。自分がいわれのない苦しみを受けたと思う時に、私たちはとんでもない罪に陥る危機の中にあります。まさに、「罪が戸口で待ち伏せている」のです。
 カインがこのように、人生の謎に直面して、それによって兄弟を憎み、殺す罪に陥ったということを考える時に、私たちは、カインに同情を覚えます。自分も同じような立場に置かれたら、カインと同じことをしてしまうに違いないと思うのです。そのように感じることこそが、カインとアベルの物語の正しい読み方です。この物語は、善人アベルと悪人カインを比べて、カインのような弟殺しの罪を犯さないように気をつけよう、という勧善懲悪の話ではありません。聖書はこの物語を通して私たちに、自分がカインであり、カインの末裔なのだ、ということを意識させようとしているのです。そういう意味で、先月も申しましたが、この物語の主人公はカインであってアベルではありません。アベルは言わば脇役です。私たちが、カインの姿の中に自分自身の姿を見出していくことこそが、この物語の目的なのです。


罪の増殖
 カインは人生の謎に直面して、兄弟アベルに嫉妬し、逆恨みして殺してしまいました。兄弟は他人の始まりと言いますが、同じ親から生まれた兄弟の間で、このように殺人の罪が犯されたのです。創世記は、このすぐ前の第三章で、アダムとエバが犯した最初の罪のことを語っていました。アダムとエバが、神様のみ言葉に背いて、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木の実」を食べてしまった、それが人間の最初の罪だったのです。この最初の罪の結果、彼らはエデンの園、いわゆる楽園から追放され、荒れ野のようなこの世を、苦労して働いて生きなければならなくなったのです。しかし罪のもたらした結果は、そのような生活上の困難だけではありませんでした。むしろもっと深い所で、アダムとエバ、つまり夫と妻との間の関係が、本来の、向かい合って共に助け合いつつ生きる祝福された関係でなくなってしまい、むしろ自分の罪の責任を相手になすりつけるような、ねじ曲がった関係になってしまったのです。つまり、神様に背く罪は、神様との関係を破壊するのみでなく、人間どうしの関係、その最も基本である夫と妻の関係をも破壊してしまったのです。アダムとエバにおけるこの人間どうしの関係の破れが、彼らの子供たち、カインとアベルの世代になると、兄弟の間での殺人という事態となって現れて来たのです。つまり、三章から四章にかけて見つめられているのは、人間の罪が、言わば雪だるま式にふくれあがっていく、という事態です。最初は、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまう、というほんのささいな事に思えた罪が、しかし一旦犯されると、どんどんエスカレートしていって、すぐに殺人にまで至ってしまう、そのように人間の罪が言わば増殖していく現実を創世記は見つめているのです。


さまようカイン
 アダムとエバが楽園から追放され、荒れ野のようなこの世を、苦労して働いて生きなければならなくなったように、カインも、弟殺しの罪のゆえに、安住の地を失い、地上をさまよい、さすらう者となりました。楽園から追放されたアダムとエバの姿も、地上をさすらうカインの姿も、罪を犯し、その結果を身に負って生きている私たち自身の姿です。神様の下で、神様に従って生きることをやめ、自分が主人になり、自分の思いによって生きていこうとした私たちは、神様の守りと支えを失い、自分の力で何とかしなければならない世界を生きています。それはしっかりとした拠り所のない、不安に満ちた世界です。楽園からの追放とはこのように、人生を支える土台の喪失なのです。また兄弟を兄弟として愛し、慈しむことができずに、むしろ妬み、憎み、殺意を抱いてしまう罪によって私たちは、安住の地を失い、地上をさまよい歩く者となっています。カインは14節で、「わたしに出会う人はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言っています。人を憎み、殺す罪を犯した者は、人からの憎しみ、殺意をいつも恐れて、びくびくしながら生きざるを得ないのです。私たちは今、まさにそのような世界を生きているのではないでしょうか。私たちは、兄弟を憎む罪によって、安らぎを失い、安心して憩える場を失い、いつも不安の内に、びくびくしながらこの世をさまよっているのです。地上をさまよう者となったカインの姿はまさに私たちの現在の姿なのです。


神の守り
 神様はこのカインに、一つのしるしを付けられたと15節にあります。それは、彼に出会う者がだれも彼を撃つことのないようにと付けられたしるしです。要するに神様が、弟殺しの罪によって地上をさすらう者となったカインを、なおも守って下さる、そのためのしるしです。ここに、罪人に対する神様の、なおも失われることのない愛が示されています。アダムとエバに対しても神様は、楽園を追放するに当って、皮の衣を作って着せられたと三章二一節にありました。それと同じように神様は、追放され、さすらい人となるカインにも、彼を守るための一つのしるしを付けられたのです。神様は人間の罪に対して、それを決してうやむやにせず、厳しく罰せられる方です。しかしそれと同時にこのように、罪人に対してもなお守りと支えを与えて下さる方なのです。カインは、自らの罪のゆえに地上をさすらいつつ生きていますが、その歩みはなお神様の守りの中に置かれているのです。そこに私たちはやはり自分自身の姿を見るのではないでしょうか。


カインの末裔たち
 さてこのように私たちは、カインの姿の中に自分自身を見つめさせられるわけですが、そのことはさらにこの第四章の後半の、カインの子孫たち、つまり文字通りのカインの末裔たちの話においても同じです。一七節以下に、カインの子孫たちのことが語られていきます。創世記のこのあたりの記述は論理的には矛盾だらけです。最初の人間がアダムとエバで、その二人の息子がカインとアベルならば、一七節に出てくるカインの妻はいったいどこから来たのか、ということになるわけです。しかしそういうことは問題ではありません。創世記の、特に十一章までは、歴史を語っているのではなくて、この世界や人間が今このように存在していることの背後にある神様のみ心、あるいはその本質、意味を、物語を通して語っているのです。ですから大切なのは、それぞれの物語が何を語ろうとしているのかをきちんと読み取っていくことです。個々の話の辻褄が合わないことに目くじらを立てていたのでは、これらの物語を正しく読むことができません。


文明の発展の担い手
 一七、一八節は、レメクという人に至るカインの子孫たちの系図です。その中で目を留めておきたいのは、一七節に、「カインは町を建てていたが」とあることです。地上をさすらう者となったはずのカインが町を建てたというのも矛盾のある話ですが、これもその矛盾に目くじらを立てるのではなく、そのことによってこの話が語ろうとしていることを見つめていくべきです。このことは、一九節以下に語られている、レメクの二人の妻たちによる三人の息子たちの職業と関係していると思われるのです。レメクには、ヤバル、ユバル、トバル・カインという三人の息子たちが生まれました。そのそれぞれが、「これこれの仕事をする者の祖先となった」と言われています。ヤバルは、「家畜を飼い天幕に住む者」の先祖に、ユバルは「竪琴や笛を奏でる者すべて」の先祖に、トバル・カインは「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」となったのです。この三人の息子たちの三つの職業の内、後の二つ、つまりユバルの「竪琴や笛を奏でる者」とトバル・カインの「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」とは、音楽と技術という、人間の文明を代表するものです。芸術と科学技術と言ってもよいでしょう。特に人類の歴史において、鉄の発明は大変大きな意味を持つ出来事でした。それまでの青銅器時代から鉄器時代に入ることによって、農業の生産力も飛躍的に向上していったのです。つまり鉄の発明は古代における大きな技術革新です。カインの末裔たちは、このような技術革新の担い手となったのです。そしてそのような文明は、都市において生まれ、育まれるものです。先程の、カインが町を建てたということはここで関係してきます。つまりカインとその末裔たちは、都市を築き、そこでの人間の文明、芸術や技術革新の担い手となったのです。それではレメクの最初の息子、ヤバルはどうなのでしょうか。彼は「家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった」とあります。これはいわゆるベドウィンと呼ばれる、移動しながら牧畜の生活をしている人々を指していると思われますから、都市における文明とは違う生活が見つめられているようにも思えます。しかしこのヤバルという名前は、「運ぶ人」という意味を持っています。そこから、このヤバルの仕事を、ラクダやロバを用いる隊商として、都市と都市の間の、国と国の間の物資の運搬に携ったのではないか、と考える人もいます。そうするとこれはただの牧畜業ではなく、運輸業、流通、物流の仕事ということになります。それもまた、文明の発展に欠かすことのできないものです。そのように考えていけば、カインから始まり、レメクの三人の息子たちに至る人々は、人間の文明の発展の担い手であり、彼らの働きによって、人々の生活が便利になり、ゆとりが生まれ、芸術も盛んになっていった、ということが見つめられていると言ってよいのです。つまりこのカインの末裔たちの姿は、まさに今日の私たちの姿と重なり合うのです。様々な技術革新によって生活は飛躍的に豊かになり、便利になり、ゆとりも生まれ、芸術的にも爛熟している、現代の社会に生きる私たちはまさにカインの末裔なのです。


復讐の歌
 さてそのように人間の文明が進歩発展していったところにどういうことが起って行ったか、それを語っているのが、二三、二四節のレメクの言葉です。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。これは言葉と言うよりも一つの歌です。そして内容的には「復讐の歌」です。「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」とあります。「私に少しでも傷を負わせる者がいたら、そいつを必ず殺してやる」ということです。つまり、自分に少しでも悪い事、気に障るような事をした者は絶対に許さず、必ず復讐してやる、と歌っているのです。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」ともあります。カインのための復讐が七倍というのは、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と恐怖におののいていたカインに、一五節で神様が言われた言葉です。カインを殺す者がいれば、私が七倍の復讐をする。神様がそれほどの思いを持ってカインを守って下さることを宣言して下さったのです。カインの子孫レメクはこの神様の言葉を用いています。しかしここで彼が言っているのは、自分のための復讐はカインの場合よりもずっと大きい、ということです。「レメクのためには七十七倍」。自分を殺したり傷つけようとする者には徹底的に復讐してやる、という思いがそこに現れています。これが、技術が進歩し、生活が便利になり、豊かになり、ゆとりも生まれ、芸術的にも爛熟していった文明の進歩の結果もたらされたものなのです。文明の進歩発展は一方で確かに、私たちの生活を便利にし、豊かにし、余裕あるものとします。しかしその便利さ、豊かさ、余裕をどのように生かして用いるかは人間次第です。文明の進歩、技術の進歩によって、憎しみもまた増大し、より大規模な復讐が行なわれるようになってしまう、ということもあるのです。復讐は復讐を生み、それが次第にエスカレートしていきます。そこに技術の進歩が結びつけば、多くの人々が虐殺されるようなことが起っていくのです。それがまさに現在のこの世界の有り様ではないでしょうか。レメクのこの野蛮な復讐の歌は、遠い昔のことではありません。これはそのまま、現代の世界に流れている調べでもあるのです。


自分を神とする
 創世記第四章のカインとアベルの物語、そしてその後のカインの末裔の物語は、人間の罪が雪だるま式に大きくなっていく様子を描いています。第三章におけるアダムとエバの最初の罪は、兄弟の間での殺人の罪へと発展し、そしてさらに、復讐が復讐を、憎しみが憎しみを生みつつ、七倍が七十七倍へと増大していくのです。これは単に復讐の規模が十一倍になった、というだけのことではありません。カインのための復讐は、神様がなさることです。神様はあのように宣言なさることで、カインを守るというご意志を明らかにされたのです。しかしレメクのための復讐は、もはや神様のなさることではなく、レメク自身がすることです。私を傷つける者は決して容赦せず、徹底的にやっつけてやる、とレメク自身が宣言しているのです。つまりレメクは、自分が神様に成り代わって復讐の主体になっています。復讐を神様に委ねるのでなく、自分が、自分の怒りによって人を裁く者となることによって、私たちは自分を神にしてしまうのです。それこそが、人間の罪の本質です。そのように自分を神にしてしまった者どうしが、互いに裁き合い、復讐の正当性を訴えつつ、際限のない復讐の繰り返しの泥沼に陥っているというのが、現在のこの世界の状況なのではないでしょうか。


目には目を、歯には歯を
 人間の復讐心には際限がありません。聖書はそのことをよくわきまえています。それゆえに、モーセの律法において、「目には目を、歯には歯を」という掟が与えられたのです。この掟は、私たちの感覚では、野蛮で残酷なことのようにも感じられますが、これは、相手から受けた損害に復讐する場合に、受けた損害と同じだけの復讐をするに留めなさい、それ以上のことをしてはならない、ということです。つまり、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」ようなことをしてはならない、七十七倍の復讐などしてはならない、ということです。目には目、歯には歯という、客観的に見て同じと分かる復讐に留めさせることで、際限なくふくれあがっていく人間の復讐心に歯止めをかけようとしているのです。


主イエスの教え
 しかし、人間の復讐心はこのような律法の掟によって押し止められるものではありません。何故なら、私たちは皆そうですが、自分が人から受けた傷や痛みはとても大きく感じるのに対して、自分が人に与えた傷や痛みはさほどに感じないからです。ですから、受けた傷と同じだけの復讐をする、ということは困難なのです。復讐された方は、自分が与えた傷以上の復讐を受けたと感じてさらに復讐をし返すという悪循環が生じるのです。それが子供の喧嘩から国際紛争にまで共通している人間の罪の現実です。それゆえに主イエス・キリストは、本日共に読まれた新約聖書の個所、マタイによる福音書第五章三八節以下で、全く新しい教えをお語りになったのです。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。主イエスは、一切復讐をするな、と言っておられます。むしろ、右の頬を打つ者には左の頬をも向けなさい、下着を取ろうとする者には上着をも与え、一ミリオン行かせようとする者と共に二ミリオン行きなさいとおっしゃるのです。それはとんでもないことだ、と私たちは思います。そんなことをしたら、悪人がますますはびこるばかりではないか…。けれども、主イエスがここで見つめ、私たちに教えようとしておられるのは、憎しみが憎しみを生み、復讐が復讐を呼んでふくれあがっていく人間の罪の現実を押し止めるためには、その憎しみの連鎖、復讐の悪循環をどこかで断ち切らなければならない、そのためには、傷つけられても復讐をしない、悪をもって悪に報いない、ということがどこかで起らなければならない、ということです。それは、相手の悪に対する復讐を自分ですることをやめ、神様のみ手に委ねるということです。つまり、自分が復讐する者、裁く者となることをやめて、その権利を神様にお返しするということです。そのようなことが起ることによってこそ、復讐が復讐を、憎しみが憎しみを生み出しふくれあがっていく罪の悪循環が断ち切られ、新しい関係を築いていくための土台が据えられるのです。創世記第四章に描き出されている人間の罪の現実を変えていくためには、このことが必要なのです。


新しい一歩へ
 主イエス・キリストは、そのように教えるのみでなく、まさにその教えの通りに歩んで下さいました。私たちの罪をご自分の身に背負い、苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。右の頬を打つ者に左の頬をも向け、下着を取ろうとする者に上着をも与え、一ミリオン行かせようとする者と共に二ミリオン行ったのは、他ならぬ主イエスご自身です。主イエスがそのようにして十字架の死への道を歩んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、新しくされて、神様の恵みの下で生きる者とされたのです。この主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかることによって、私たちは、主イエスと共に、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生んでふくれあがっていく罪の現実を変えるための新しい一歩を踏み出すことができるのです。ここに教えられていることは確かに大変なことであり、場合によってはかえって悪をはびこらせるようなことにもなりかねない面がありますから、この世の現実の中でこの主イエスのお言葉をどう実践していくかは、そう単純ではないのも事実です。しかし、自分で復讐をし、裁く者であろうとすることをやめ、神様のみ手に事柄を委ねる、という基本的な姿勢は、子供の喧嘩から国際紛争に至るまで、カインの末裔である私たち人間の罪によって引き起こされ、増殖していく対立を解決していくための、最も基本的な、また現実的な、そして具体的な新しい一歩であると言うことができるのです。




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