Yokohama Shiloh Message
■2013年6月2日・主日礼拝説教 


「人を汚すもの」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第50編1−23節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第7章14−23節  
・ 讃美歌:2,127,520,81




清いものと汚れたもの
 本日の説教の題を「人を汚すもの」とつけました。本日はマルコによる福音書第7章14節以下をご一緒に読むのですが、ここには、本当に人を汚すものは何なのか、ということについての主イエスの教えが語られています。何が人を汚すのか、ということが、当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題だったのです。旧約聖書には、清いものと汚れたものとを区別するための大変細かい掟が記されています。それは、汚れたものに触れて汚れを身に負ってしまうと神様の前に出ることができなくなるからです。つまりこの汚れは衛生的な問題ではなくて宗教的な汚れです。旧約聖書には、そのように汚れてしまった人が身を清めて再び神様の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく教えられています。先日の婦人会の例会の中で、そういう旧約の掟について、「昔のイスラエルの人たちは大変だったのですね」という感想が語られました。そのような感想が生まれるほどに、私たちクリスチャンは、何かによって宗教的に身が汚れるという感覚を全く持っていません。旧約聖書に語られている、清いものと汚れたものについての教えは私たちにおいてはもう乗り越えられているのです。しかしそれはどのようにして乗り越えられたのでしょうか。時代が下って合理的な考え方が定着してくると、そのような感覚は自然に乗り越えられていくのでしょうか。そんなことはありません。私たちが、日常の生活の中で「これは清いものか、汚れているか」などと気にすることなく生きていけるのは、本日のところに語られている主イエスの教えによるのです。逆に言えば、この主イエスの教えをしっかりと聞くことなしには、私たちは、これは清いだろうか、これは汚れていないだろうか、ということを気にしながら生きることから解放されることはないのです。本日はそのことを、この箇所から聞き取っていきたいのです。

昔の人の言い伝え
 本日の箇所は7章1節以下の話の続きです。そこには、エルサレムから来たファリサイ派や律法学者たちが、主イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をしている者がいるので批判したことが語られていました。彼らは5節で主イエスにこう言っています。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。汚れた手で食事をしている弟子たちをあなたはなぜ許しているのか。昔の人の言い伝えに従ってちゃんと手を洗ってから食事をするように指導するべきではないか、ということです。手を洗わずに食事をするというのは私たちにとっては衛生的な問題ですが、彼らが問題にしているのは先程申しましたように宗教的な汚れです。自分の弟子たちが宗教的に汚れたことをしているのを見過ごしにしているようでは、イエスは神の教えを正しく説いているとは言えない、と彼らは思っているのです。しかし彼らが批判しているのは、弟子たちが「昔の人の言い伝えに従って」歩んでいない、ということです。食事の前に手を洗わないと汚れるというのは、聖書の律法に記されていることではなくて、昔の人々から言い伝えられてきた教え、慣習、しきたりなのです。それに従っていないということで、彼らは弟子たちを、そして主イエスを批判しているのです。それに対して主イエスは8節で、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とおっしゃいました。また13節では「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」とも言われました。大事なのは神の言葉、神の掟に従うこと、つまり神様のみ心を知り、それに従うことなのであって、人間の言い伝えやしきたりにこだわることではない。あなたがたは肝心な神の言葉をないがしろにして、人間の言い伝えやしきたりばかりを追い求めている、と主イエスはおっしゃったのです。人間の言い伝え、しきたりは、それが生まれた時にはそれなりの理由や必然性があったのでしょう。その時代に神の掟、み言葉に基づいて歩むためにはそういう教えが必要だったのです。しかし時が経ち、時代が変わり、状況も変化する中で、その教えの必然性が失われていくことはいくらでもあります。それなのに、その言い伝え、慣習、しきたりに固執するのは、人間の思いをみ言葉よりも大事にすることになる、主イエスがファリサイ派や律法学者たちをそのように批判なさったことが、13節までに語られていたのです。

変えられることを嫌う私たち
 「何が人を汚すのか」という本日の話の背景にはこういう対立があります。ここに起こっていることは私たちと決して無縁ではありません。私たちも、このファリサイ派や律法学者たちと同じように、自分たちの言い伝え、慣習、しきたりにこだわり、それと違うことをする人を批判することがあります。批判すること自体が問題なのではありません。歩むべき正しい道を見出すためには、お互いの思いを批判的に検証し合うことは大事です。人の意見に何でも無批判に迎合してしまうのは無責任なことです。しかし問題は、その批判が神の言葉、神様のみ心に基づいているのか、それとも人間の言い伝えやしきたりへの固執によるものなのかです。私たちには、自分たちがこれまで大事にしてきたことをそのまま続け、守ろうとする思いがあります。先人からの伝統を守ろうとすることは決して否定されるべきではない、大切なことです。しかしそこには同時に、自分たちがしてきたことを変えたくない、という思いが働くことも事実です。それまでしてきたことを変えることは、自分を否定されるような気がして嫌なのです。つまり私たちは基本的に、自分たちのしてきたことを見直し、変えていくことが苦手なのです。そこに、しきたりへの固執が起ります。ファリサイ派や律法学者たちに起こっていたのはそういうことです。同じことが自分にも起こっていないか、と私たちはいつも心していなければなりません。神の言葉は私たちを常に新しく造り変えていくものです。み言葉に聞き従うとは、自分が変えられることを受け入れるということです。私たちはそれが苦手なのです。だからファリサイ派や律法学者たちに起こっていることは私たちにも起こるのです。

「清い者」と「汚れた者」
 そしてそのように人間の言い伝えやしきたりへの固執によって人を批判していく時に私たちは、このファリサイ派や律法学者たちがしたように、人のことを「汚れている」と思うのではないでしょうか。それは裏返せば、自分のことを「清い」と思っているということです。手を洗わずに食事をしている者たちは汚れている、それは逆に言えば、手を洗っている自分たちは「清い」ということです。「清い者」と「汚れた者」という区別を設けて、自分たちは清い者として汚れた者を批判する、そういう図式がここにはあります。私たちも、それと同じことをしているのではないでしょうか。言い伝え、しきたりに従っている自分は清い者であり、それに従わないあの人たちは汚れた者、この集団に相応しくない者として批判する、ということがあるのではないでしょうか。そういうことは、科学的、合理的なものの考え方が広まったからといって自然になくなることはありません。私たちの心の中に、人を「清い者」と「汚れた者」、言い換えれば「いい者」と「悪者」に分けて、「清い者、いい者」の立場に立って「汚れた者、悪者」を批判していく思いがある限り、そういうことはなくならないのです。それゆえに、本日の箇所で主イエスが「本当に人を汚すものは何なのか」について語っておられることは、私たち皆が聞くべきみ言葉なのです。

人を汚すもの
 さて主イエスは15節で「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」とおっしゃいました。この謎のような言葉の意味を弟子たちが後から尋ねたのに答えて、主イエスがお語りになったみ言葉が18節以下です。  先ず18、19節は、「外から人の体に入るものが人を汚すことはない」ということです。「外から人の体に入るもの」それは食べ物です。食べ物は外から人の腹の中に入り、そして消化されて出ていくのです。「こうして、すべての食べ物は清められる」と19節の終わりにあります。それは、外から腹の中に入るものは、出ていくときはみんな同じだ、ということでしょう。清いと言われているものも、汚れていると言われているものも、体から出ていく時には区別できない、清いうんちと汚れたうんちがあるわけではない。だから、食べ物のせいで人が汚れるようなことはないのだ、と言っておられるのです。食べ物のことはたとえです。主イエスはこれによて、人の本当の汚れは外から入って来るのではない、と言っておられるのです。  それでは、人の汚れはどこから来るのか。たとえにおいては「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われており、その説明が20節以下です。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。「人から出て来るものこそ人を汚す」というのは、体から出ていく排泄物のことではありません。「人間の心から出て来る悪い思い」のことです。それこそが人を本当に汚れた者とするのです。その汚れとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などがあげられています。これらの悪い思いと行いは、外から入って来るのではなくて、私たちの心の中から生まれて来るのです。

悪い目
 ここに並べられている悪い思いと行いの中の二つのことについて、少し深く考えておきたいと思います。先ず「ねたみ」です。これは原文においては、「悪い目」という言葉です。「ねたみ」とは「悪い目で人を見る」ことです。私たちはいつもどのような目で人を見ているでしょうか。その目が、人と自分とを見比べ、ランクづけをして、そして自分の方が相手よりもランクが上だと思えると安心し、相手の方がランクが上だと感じると憎らしくなる、そういう目で人を見ていることが「悪い目で見る」ことであり、そこに「ねたみ」が生まれるのです。そしてこのねたみは「傲慢」と表裏一体です。人と自分を見比べて自分の方が上だと思うことが傲慢です。「ねたみ」も「傲慢」も、人と自分を見比べ、ランクづけをするという悪い目から生じるのです。そしてその悪い目から、「悪意」や「悪口」も生まれてきます。人のことを「汚れた者」として批判することもそれに当ります。またそこから「殺意」すらも生まれてくるのです。つまり私たちの人間関係の中に起こる様々な問題、トラブルの多くは、私たちが人を悪い目で見ていることに原因があるのです。  もう一つ考えておきたいのは最後の「無分別」という言葉です。これは「愚かさ」という意味の言葉ですが、別の訳し方をすると「理性的でない、考えなし」となります。理性的にしっかり考えることができないこと、それが「無分別」であり悪い思いとされているのです。それでは、「分別がある」つまり「理性的にしっかり考える」とはどういうことでしょうか。それについては、後でもう一度考えたいと思います。

汚れは外からではなく内から
 主イエスはこのように、人の汚れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。つまり汚れはバイキンのようなものではない、ということです。ファリサイ派や律法学者たちは、バイキンから身を守るように汚れから身を守ろうとしていたのです。食事の前に手を洗うという言い伝えが生まれたのはまさにそういう感覚によってでしょう。私たちが、衛生的な観点から、手を洗い、バイキンを落としてから食事をするように、彼らは汚れを洗い落とすことによって清い者となろうとしていたのです。それに対して主イエスは、汚れは洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、とおっしゃったのです。それはファリサイ派や律法学者たちに対する批判であるだけではありません。私たちが、人を「いい者と悪者」に区別して、一生懸命自分を清め、汚れたこと、悪いことから遠ざかり、自分はいい者として悪者を批判しようとする時、その前提には、自分がもともと清い者であり、汚れは外から、バイキンのように入って来る、という思いがあるのです。主イエスはそういう私たちに対して厳しい否をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、言ってみればバイキンの巣がある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っておられるのです。だから、外側をいくら一生懸命に清めても、私たちは清い者となることができないのです。

神の国は近づいた
 それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。汚れは外側からではなく内側から、心の中から生じるのだから、外側ではなくて心の中をこそ洗い清めなさい、と主イエスは教えておられるのでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできません。悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心するとしても、そのこと自体が、心の汚れもバイキンのように洗って落とせるという前提に立っているのであって、そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだと主イエスは言っておられるのです。ですから主イエスの教えは、「手を洗うよりも心を洗い清めなさい」ということではありません。主イエスは、その伝道の最初の時以来、1章15節に語られていたように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様のご支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それが主イエスの教えの根本です。そしてこの神様のご支配の確立にこそ、私たちの心を支配している汚れ、罪からの解放が、つまり救いがあるのです。その解放、救いは、私たちが自分の心を洗い清めることによってではなくて、神様が私たちを支配して下さることによって実現し、与えられます。その神様のご支配が、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって、外から近づき、与えられるのです。汚れは私たちの内側から生じるということは、私たちは自分の内側でそれを解決することができないということです。自分で自分の心をいくら洗い清めても、汚れは次から次へと内側からにじみ出てくるのです。その解決は、神様が遣わして下さった救い主イエス・キリストによって、外から与えられるのです。そのために主イエスは私たちと同じ人間になってこの世を生きて下さいました。それは、私たちの心を支配している罪、汚れを、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さるためでした。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めて下さったのです。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのをやめて、キリストの十字架による罪の赦しという福音、善い知らせ、救いの知らせを信じ受け入れて、その神様の恵みのご支配の下に身を置いて生きなさい、ということです。主イエスはその恵みを私たちがいただくことの目に見える印として洗礼を定めて下さり、またその恵みを体をもって味わいつつ生きるために、この後あずかる聖餐を備えて下さったのです。

良い目で人を見る者へと
 主イエス・キリストによる罪の赦しを与えられることによって、私たちは清い者とされていきます。その時私たちはどのように変えられていくのでしょうか。先程のあの「ねたみ」、つまり「悪い目で人を見る」ことについて考えたいと思います。キリストによって清められる時、私たちの人を見る目が変えられていくのです。悪い目とは、人と自分とを見比べ、ランクづけをするような目だと申しました。その目が、良い目へと変えられていくのです。そのことは、自分自身を見る目が先ず変えられることから始まります。主イエスによる救いにあずかった私たちは、神様が、独り子の命を与えて下さったほどにこの私を愛して下さっている、大事に思って下さっていることを見つめることができます。神様の恵みの中に生かされている自分自身を見つめる目を与えられるのです。その時、私たちの、人を見る目も変わっていきます。人と自分とを見比べて、どちらが上か下かで一喜一憂するのでなくて、自分と同じように神様の恵みの中に生かされている者として人を見つめ、その人に与えられている恵みを感謝する、という良い目で人を見ることができるようになるのです。そこに、傲慢やねたみからの解放があり、悪意、悪口そして殺意からの解放があります。そのようにして、私たちの心の中の汚れの源が取り去られていくのです。

分別ある者へと
 そしてこのことが、先程「無分別」について考えた時に後回しにした問いとつながります。無分別とは、「理性的でない、考えなし」ということだと申しました。それでは理性的にしっかりものを考えるとはどういうことか。それは理論的、合理的に何でも考えるということではありません。私たちが立てる理論や道理もまた、私たちの汚れた心から出て来るものであって、やはり汚れたものです。私たちは、自分の感情や気持ちに合う理論や道理をこしらえることが得意です。理論的、客観的に道理を主張しているようでいて、実は自分の思いや感情に基づいて語っており、理論や道理を用いて人を批判しているようなことがいかに多いことでしょうか。そういうところにまさに私たちの汚れがあるのです。そこから解放されて、本当に理性的に考える者となるとは、自分の中で道理を組み立てるのではなくて、神様が主イエス・キリストによって外から示し与えて下さった道理によって考えることです。その道理とは、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を赦し、汚れを清めて下さり、神様のみ前で、神様と共に生きる者として下さったということです。そのキリストによる救いの恵みの中で、自分のことをも他の人々のことをも見つめていく、つまり自分をも他人をも「良い目」をもって見つめていくことこそが、本当に理性的にしっかりものを考えること、つまり分別のある生き方なのです。自分の感情に振り回されるのではなくて、主イエス・キリストによる救いの恵みの中で物事を考え、行動していく、それが、キリストの福音によって与えられる清さです。主イエス・キリストが、十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下さったことによって、私たちはこのような清さに生きる者とされているのです。だからこそ私たちは、清いものと汚れたものを区別する旧約聖書の教えや、そこに語られている清めの儀式を乗り越えて生きることができます。それだけでなく、人を汚れた者として批判するような悪い目によってではなくて、主イエスが私たちを見つめて下さっている恵みに満ちた目で、自分をも人をも見つめていくことができるのです。




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