Yokohama Shiloh Message
■2020年5月


◆  5月奨励 

・ 新約聖書:使徒言行録 第12章 1-5節

音声はここをクリック

教会の存亡の危機
 指路教会の皆さん、いかがお過しでしょうか。礼拝に共に集って皆さんのお顔を見ることができなくなり、一ヶ月が経とうとしています。ご健康は支えられているでしょうか。教会に集まって礼拝や祈祷会をすることが今はできませんが、それぞれのご家庭で、聖書を読み、祈りの時を持って、神さまのみ言葉を聞き、慰めと支えを受けながら歩んでいきたいと願っています。教会からはいろいろな仕方で皆さんにお手紙やメッセージをお送りしていますが、届いていますでしょうか。教会のホームページには説教の原稿と音声を載せています。それらを用いてご自宅で礼拝を守って下さい。それを見ることができない方には説教の原稿のプリントを郵送していますのでどうぞご連絡下さい。
 このように、共に集って礼拝を守ることができず、それぞれの場所で祈りを合わせている、という今の教会の状況を覚えながら、5月の聖句を選びました。使徒言行録第12章の5節です。ここは、誕生したばかりの教会にヘロデ王が迫害の手を伸ばしてきて、教会が危機に陥った時のことです。十二人の使徒の一人である「ヨハネの兄弟ヤコブ」(「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」のヤコブ)がこの時殉教の死をとげました。ヤコブを殺したことをユダヤ人たちが喜んだのを見てヘロデは、さらにユダヤ人たちの歓心を買おうとして、使徒たちの中心だったペトロをも捕えて牢につないだのです。ペトロは「四人一組の兵士四組」によって監視されていました。6節には「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた」とあります。両側に一人ずつの兵士と鎖でつながれ、牢の戸口に番兵が複数、これが四人一組です。その兵士が四交替でペトロを監視していたのです。要するにペトロは、とうてい逃げられない状況に置かれており、過越祭が終われば民衆の前に引き出されて、ヤコブと同じように処刑されてしまうに違いないと思われたのです。使徒の中心であるペトロが殺されそうになったことによって、教会はまさに存亡の危機に直面したのです。
 これは迫害による危機ですが、今私たちも、これとは全く違う事情によって、しかし同じように教会の存亡の危機の中にいます。教会の歩みの中心は「礼拝」です。「日本基督教団信仰告白」には「教会は公の礼拝を守り」とあります。「公の」というのは、皆が共に集まる、ということであり、しかも全ての人に開かれており、誰でもそこに参加できる、ということです。教会の礼拝は、世間から隠れてなされている「秘密結社の集会」ではありません。教会は常に、「どなたでもどうぞご一緒に礼拝を守りましょう」という姿勢で礼拝を守っているのです。その公の礼拝において神の言葉が語られ、伝道がなされていくのです。「公の礼拝」は教会の営みの中心であり命です。それを今私たちはすることができずにいます。それは教会にとってまさに存亡の危機です。
 勿論、私たちの教会は今全く礼拝をしていないのではありません。牧師、伝道師と長老数名が毎週日曜日に礼拝堂で礼拝を守っており、その音声をホームページにアップしているのです。その礼拝は、限られた少数の者たちが教会員の皆さんを代表して守っているものです。その礼拝において、そこに集うことのできない多くの教会員のことを覚えて執り成しの祈りがなされています。教会員の皆さんには、この礼拝の音声や説教の原稿を共有することによって、それぞれの家に分散して、同じみ言葉を聞きつつ礼拝を守っていただいているのです。今私たちはこのような形で、教会の命である礼拝を維持しつつ歩んでいます。教会としての命脈をかろうじて保っていると言えるでしょう。しかしこれは先程申しました「公の礼拝」とはほど遠いものです。何よりも大きなことは、説教と共に教会にとって命の糧である聖餐にあずかることができないことです。説教を聞き、聖餐にあずかることによって、兄弟姉妹と共にキリストの体に連なって歩むのが教会の信仰です。ですからこのままでは、かろうじて保たれている教会の命脈もじきに尽きてしまいます。もしも私たちが、「ネットを通して説教を聞いたり、原稿を読んだりして祈ることができれば、礼拝に共に集うことができなくてもいいや」と思うようになったとしたら、それはキリストの体である教会の死であり滅亡に他なりません。サタンは新型コロナウイルスを用いて私たちにそのような思いを起させ、教会を滅ぼそうとしているのです。このサタンの策略と私たちはしっかり戦わなければなりません。共に集まって礼拝を守ることができなくなっている今、私たちは、初代教会においてペトロが捕えられ殺されそうになった時と同じように、教会の滅亡の危機に直面しているのだ、ということを意識していることが大切なのです。

危機の中で、唯一本当に有効なこと
 このような教会の存亡の危機において私たちは何をするべきか、そのことを初代の教会の姿から学ぼうと思って、5節を五月の聖句として選びました。「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。教会が、教会に連なる人々が、この危機の中で「熱心に」していたことは、捕われたペトロを救出するための計画を練ることでもなければ、ペトロの釈放を求めて運動を起すことでもありませんでした。教会の人々は、ペトロのために熱心な祈りを神にささげていたのです。熱心に祈っていたのです。このことこそ、危機に直面した教会がなすべきことであり、唯一、本当に有効なことなのです。「ペトロ奪還計画」や「釈放運動」などは、何の効果もない気休めでしかありません。もはやそのような人間の力で打開できるような事態ではないのです。しかし私たちはともすれば、気休めでしかないことを熱心にしようとします。それは、何かの「活動」をしていないと不安だからです。無駄なことでも、何かをいっしょうけんめいにしているとそれで安心する、ということがあります。しかし危機の中でこそ私たちは、本当に必要なこと、本当に有効なことをしなければなりません。教会において、私たちの信仰において、それは祈ることです。ペトロが捕えられ、殺されそうになっているという危機の中で、教会では、彼のために熱心な祈りが神にささげられていたのです。この祈りを神が聞いて下さって、6節以下で主の天使によるペトロの救出がなされたのです。

教会の祈り
 「教会では」とあります。私たちはそこですぐに教会の建物を思い浮かべ、そこに人々が集まって共に祈ることを想像します。そして、今私たちは教会に集まることができず、祈祷会も休止となっているのだから、ここに語られているように教会で祈ることはできない、と思ってしまいます。しかしこの当時の教会には「教会堂」などありませんでした。教会としての建物を持つ力はなかったし、迫害の中では、誰が見ても「ここに教会がある」と思えるような場を持つことはあり得なかったのです。当時の教会の礼拝は基本的に、信者である誰かの家でなされていたのです。ですからここに「教会では」とあるのは、教会の群れにおいて、という意味です。キリストの体である教会に共に連なっている兄弟姉妹たちが、心を合わせて熱心に祈っていたことを、「教会では祈りがささげられていた」と言っているのです。今私たちは、誰かの家に集まることも避けるべき状況ですから、そういう意味では確かにここに語られているのと同じようにはできません。自宅において一人で祈るしかない、家族の誰かと共に祈ることができる人はとても幸いです。しかし大事なことは、たとえ一人で祈っているとしても、それは教会の群れの一人としての祈り、教会の祈りなのだ、ということです。言い替えれば、私たちは祈る時に、自分と神さまとの繋がりだけを意識するのではなくて、共に教会に連なっている兄弟姉妹のことを意識して、兄弟姉妹のために祈るのです。

執り成しの祈り
 そういう祈りを「執り成しの祈り」と言うわけですが、ここでなされていたのはまさに「執り成しの祈り」です。「彼のために」という言葉がそれを表しています。捕えられ、命の危機の中にある仲間であり指導者であるペトロのために、教会の人々が心を合わせて熱心に祈っていたのです。このように具体的にある人のことを覚え、その人のためになされる祈りは自然に「熱心な」祈りとなります。執り成しの祈りは、どのような状況にある誰のために祈るのか、という課題が具体的にはっきりしていることによって「熱心な祈り」となるのです。
 私たちは今、誰のために祈るべきなのでしょうか。今、新型コロナウイルスによって共に礼拝する自由を奪われ、信仰の危機にさらされているのは私たち一人ひとりです。私たちそれぞれが信仰の危機に瀕しており、それが即ち教会の存亡の危機なのです。ですから今私たちが覚えて祈るべきなのは、自分自身のことであり、また教会に連なる兄弟姉妹のことです。自分自身と教会の兄弟姉妹のために、熱心な祈りを神にささげることこそが、今私たちがなすべきことです。それぞれが自分の家で、この祈りを神にささげ、お互いに執り成し祈り合って歩むことによって、私たちの祈りが、教会の祈り、教会の群れとしての祈りとなるのです。この五月、なお共に礼拝を守ることができない試練の日々が続きます。教会から配信されるみ言葉を共に聞きつつ、お互いのことを覚えて、教会の祈りを共に祈りましょう。その祈りを主は必ず聞いて下さり、み業を行って下さるのです。

祈っている者の中にもある不信仰
 6節以下には、教会の熱心な祈りを神が聞いて下さり、天使を遣わしてペトロを救い出して下さったことが語られています。そこにおいて興味深いのは、天使によって牢から解放されたペトロが、教会の人々が集まって祈っている「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」(12節)に行って戸をたたき、女中が驚いて「ペトロが門の前に立っている」と告げた時に、集まっていた信者たちは「あなたは気が変になっているのだ」とか、「それはペトロを守る天使だろう」と言ったということです。つまり彼らは、ペトロが神によって救われ、解放されて戻って来たことを信じなかったのです。「そんなことあるはずがない」と思ったのです。彼らは、ペトロのために、彼が神さまによって救われ、解放されることを熱心に祈り求めていました。その祈りが叶えられ、願っていた通りにペトロが帰って来たのに、それが現実のこととは思えなかったのです。ここには、熱心に祈っていながら、祈っていることが本当に実現するとは思っていない、という彼らの不信仰が描かれています。それはそのまま私たちの姿だと言わなければならないでしょう。私たちは、信仰において祈ることが大切であることを知っています。繰り返しそれを教えられています。本日の箇所つまり今月の聖句もまさにそのことを語っているのです。しかし私たちはそれを知りつつ、そしてそれなりに熱心に祈りつつ、神がその祈りを本当に聞いて下さるとは思っていない、ということがあるのではないでしょうか。熱心に祈っている私たち信仰者の中にも、このような不信仰がある、ということをこの出来事は示しているのです。

祈りへの励まし
 けれども、私たちがここから読み取るべきことは、そのような私たちの不信仰への戒めだけではないと思います。祈りながらも、その祈りが本当に聞かれることを疑っているようではだめだ、神が祈りを本当に聞いて下さり、叶えて下さることをちゃんと信じて祈る者でなければならない、それは確かにその通りでしょう。しかしこの話はそのように私たちを叱りつけ、反省を求めるために語られているのではないと思うのです。むしろ、神は、私たちが祈り願っていることをはるかに越えて、私たちの思いが全く及ばないような、考えてもいないような、救いのみ業を行って下さるのだ、ということによってこの話は私たちを励ましてくれているのではないでしょうか。神の恵みのみ業は、私たちが受け止め切れないほどに大きいのです。それがなされる時私たちは、「祈り願ったことが叶えられた」と喜ぶよりも、思いがけない恵みに、驚きとまどうのです。
 教会が存亡の危機に陥った時、教会に連なる者たちが熱心に執り成しの祈りをささげた、その祈りに神は応えて下さって、彼らが祈り願っていたよりもはるかに大きい救いを実現して下さった、それが、この箇所から私たちが読み取るべきメッセージです。私たちも今、教会の存亡の危機に直面しています。しかしこの箇所によって慰められ、励まされて、それぞれの置かれている所で、教会に連なる者として、お互いのための執り成しの祈りを、熱心に祈っていきましょう。主がその祈りに応えて、私たちの思いや願いを越えたどのような恵みのみ業を行って下さるのか、それを楽しみにして歩んでいこうではありませんか。




Copyright(c) Yokohama Shiloh Church 2001-2020